深海のアビス
- Tomoya Abe
- 7月16日
- 読了時間: 2分

光は、 ここまで来るあいだに
何度も名前を変えた。
希望だったものは残光に、
救いだったものは水泡に、
あなたの声だったものは
ただの振動になった。
それでも私は
沈められたわけではない。
肺を捨て、
足を捨て、
地上で愛されるための形を捨てて、
この尾びれを選んだ。
暗闇に適応するたび、
綺麗になっていくのが怖かった。
青白い肌。
濃紺の鱗。
泣かなくても濡れている瞳。
誰にも見つからない場所でしか
完成できない美しさがあるなんて、
地上の人たちは知らない。
遥か上には
まだ白い光が揺れている。
戻ろうと思えば、
戻れるのかもしれない。
けれど、
光の下ではいつも
正しい表情を求められた。
笑って。
話して。
こちらを見て。
人間らしくして。
深海は何も求めない。
黙っていても、
冷たくても、
誰かを愛せなくても、
ここでは欠陥と呼ばれない。
だから私は
裂け目の縁に腰掛け、
届かない光へ背を向ける。
尾びれの先が
ゆっくりと闇に呑まれていく。
逃げなければ、とも思わない。
助けてほしい、とも思わない。
あの底に浮かぶ
二つの青白い眼だけが、
ずっと前から
私の正体を知っている。
深淵を覗いているつもりだった。
けれど本当は、
生まれたときからずっと
深淵のほうが
私を見つけていた。
地上では
怪物になりきれなかった。
人魚にも、
人間にも、
悲劇のヒロインにもなれなかった。
だから今夜、
名前のないものとして
最も暗い場所へ帰る。
そこに何がいるのかは
もう、どうでもいい。
私が沈むのではない。
アビスが静かに口を開き、
ようやく私を
飲み込もうとしている。



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